【日記リレー2022 vol.17】「夢」〜志野明文(4年/経済学部/MF/#50/慶應義塾ニューヨーク学院)〜 

ゆうせいからバトンを受け取りました、アモヘルこと志野明文です。

一緒にワンピースカードゲームを始めようと言ったのにまだ始めてないので、今すぐ始めてもらいます。今年からトレーナーになったにも関わらず、トレーナーの仕事を全部覚えてやっている宥生を陰ながら尊敬しています。僕にはできません。紹介ありがとう!

さて、

文章を読むことが苦手な僕ですので、先輩の日記リレーを読んだことありません。
しかし、4年生になって日記リレーを書くことになったので、3年分の先輩の文章を読み直しました。
みなさんいいこと書いていて感動しました。僕も頑張って書きます。ノイス

初めに言いますと、自分はラクロス歴9年です。

しかし、大学1年生の頃から4年間Bチームに所属しています。

なぜ1年生の頃にBチームにいた少年が4年間Bチームにいるのか。

自分の9年のラクロス人生について話していきたいと思います。

僕がラクロスを始めたきっかけは、中学3年生の時に先輩がおしゃれなキャッチボール(BTB)をしていて、一目惚れし、ラクロスを始めました。単純な理由です。

中学3年生の時は、何も考えずにただひたすら楽しみながらラクロスをしていました。
始めたてで試合には出られないため、雪が降っている中でも凍えながら先輩のプレーを見ていたことを覚えています。
対してうまくもなかったので、ラクロスをやめようと考えていた時期もありました。

高校1年生になると環境は一変し、先輩が抜けたことで試合に出る回数も増えました。
試合に出られるようになると、ラクロスを好きになり、また、ラクロスに費やす時間が増え、どんどんうまくなっていきます。
寮から食堂に行くだけなのに、ラクロススティックを持ち歩いて、壁あてしながら移動していました。
あの時ほど、楽しく自主練をしたことはないと思います。

高校2年生になると、試合に出られるのは当然で、活躍するようにもなります。
先輩には怒鳴り散らかし、同期にも怒鳴っていた自分を思い出すと今はすごく恥ずかしいです。ごめんなさい。
そして、ルームメイトが小川司くん(部活の同期、後に日本代表)になり、一日中ラクロスについて話していました。
テスト期間中、勉強せずに壁あて、シュート練習を行い、お互いギリギリの成績で部活動に励んでいました。
また、自分は勉強しないといけない時は勉強するのですが、司は焦りを感じながらもラクロスをするのでバカだなと思いながらもその努力こそが司が上手くなった理由だと思っています。

高校3年生になると、自分には目標ができました。

最強の代になり、優秀選手賞を取ることです。

3年生からはラクロスの動画も見始め、たくさんの選手の名前を覚えました。全部司の影響です。
司を部活に誘ったのは僕ですが、司がいなかったら自分はここまでラクロスにハマることはないし、努力することはなかったと思います。ダンケシェン

ラストシーズンが始まる直前に自分は半月板を損傷し、シーズンオーバーを覚悟しました。
みんなの前ではいつもヘラヘラしていますが、あの時は悔しくてしょうがなかったです。

膝と膝の間に骨が挟まり、足を伸ばせなかったのですが、毎日伸ばす努力をしていたら挟まっていた骨が元の位置に戻り、歩けるようになりました。

アメリカ人のドクターにも「miracle」と言われたことを覚えています。80%もう一回怪我すると止められましたが、頭を下げて交渉し、部活に復帰しました。

そして、シーズン終わりには46ゴール、26アシストでシーズンを終え、ALL LEAGUEという欲しかった優秀選手賞をもらうことができました。

ここまでは高校編です。

上手くいっているように聞こえますが、大学に入ってからは環境が変わります。

大学に入学する前に時間があったので、半月板の手術をしました。
自分はもうプレイヤーは続けないと思っていましたが、同期のみんなが大学に入部する前に慶應の練習に参加しているのを見ていると自分だけ置いて行かれているような気がして、自分も大学でラクロスをやろうと心に決めました。

経験者はトライアウトというものが入部前にあるのですが、自分は怪我のため間に合わなかったので、1人遅れて慶應ラクロス部に入部しました。

大学のラクロスでは、アメリカとの戦術が違い、1人遅れて入ったこともあり、馴染めず大学1年生の時はDチームから始まりました。

ある日、授業抜けでCチームに参加していた先輩がたまたま僕のことを「上手くね」と言ってくれて、その次に日からはDチームからBチームに上がりました。

1チーム飛ばして上がる人は多分今後僕以外いないと思います。

Bチームにいたため、いつか4年生になったら自分も「Aチームの最前線で活躍する」のだろうなと夢見ていました。

しかし、現実は甘くありませんでした。

ノイス。
(ノイスはniceの訛りです。言いたいだけです。ついでに流行らせましょう!)

一年生の頃は同期と過ごす時間も多く、学校の帰り、練習の終わりにひたすら自主練習をしていました。
その結果、自分はDチームで始まった生活から抜け出し、Bチームに上がることができたのだと思っています。

2年生になるとコロナが始まったのもあり、対面練習ができなくなり、時間が増え、新しいことをたくさん始めました。
ラクロスはもちろんいつも以上に考え、自主練習を行いました。
ジムには週5回以上行くようになり、いつでもラクロスできる状態に仕上げました。
そんなこともあり、2年生の頃は何度かAチームに上がることがありました。
怪我もあり、タイミングも悪く、定着することはできませんでしたが、努力した分、結果が出て自分に自信がつきました。

3年生になり、「今年こそは」と思った矢先、初めの方に怪我をして、早慶戦前にリハに入ってしまいました。
早慶戦のベンチに入ることを目標にしていた僕は、この時心にぽっかりと穴が開いた気がします。
怪我明けはもちろんBチームから始まり、人事変動は少ないため、自分はどんどん腐っていきました。
変に尖り始め、プレーも雑になっていきます。

同期が活躍しているのを見ていると心のそこから喜ぶことはできませんでした。

3年生の時は優勝したものの、フィールドにすら立てなかったので、悔しい思いでいっぱいになりました。

そして、現在、4年生です。

ここからは自分の思いも書きたいと思います。

ラクロスをするのも人生で最後です。

しかし、4年生の初めに僕はまた怪我をしてしまいました。
コロナ明けということもあり、Aチームに定着することはできませんでした。

同期にも冗談で「コーチだな」と言われるようになり、自分の中でラクロスを続けてきた意味、目標はなんなのだろうと改めて考えました。

そして自分には答えが出ました。

居場所の確保?
楽しむこと?
活躍すること?
優勝すること?

どれも違います。

チームに貢献し、みんなで「制覇」する。

それだけです。

そして、最高の思い出を残し、引退することです。

最近のAチームは見ていてヒヤヒヤする試合をよくすると思っています。
何度か引退が頭によぎることもありました。
圧勝してこそ慶應ラクロスだと思っています。

現在、「まだ」Bチームの僕ですが、いつも真後ろで待っています。

1年生の頃に夢描いていた「Aチームの最前線で活躍する」夢は終わってないです。

Aチームのみんなはもう一度気を引き締め直して、全身全霊で一個一個の試合に向けて頑張ってください。

すぐ追いついて、追い抜きます。

そして、現在Bチームで腐り、尖っている後輩や同期には言っておきたいことがあります。

死ぬほど努力しないとやばいぞ。

尖っていることはかっこいいことではありません。
尖っていることは現実からただ逃げていることです。 (志野明文)

例え、1年生の頃からBチームにいたところで、将来Aチームに絶対入れるとは限りません。

怪我でチームに残れなかったことはただの言い訳で、準備不足であり、実力不足です。

努力して結果を残せたやつのみがAチームに定着します。

現在腐っているやつは1日24時間ラクロスのことだけを考えておいてください。

最後に、

努力して結果が出ると、自信になります。

努力せず結果も出ないと、後悔が残ります。

例え、努力して結果が出なくても経験は残ります。

(誰かの言葉です)

この言葉は自分のラクロス人生を総括しているような気がします。
しかし、自分は後悔や経験を残さず自分が納得の行くラクロス人生を残したいと思います。

自分の大学生活を「もっとこうしておけばよかったな」と後悔が残らないようにお互い最後まで、切磋琢磨しましょう。

1年生の頃から期待してくださったコーチの皆さん、先輩の方々、

これから志野明文の快進撃を乞うご期待ください。

そして、みっちゃん(お母さん)、ニューヨーク校、同期、今までありがとう。
ようちゃんはこれから頑張れ!

ノイス。

ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうございました。次は、末松日向君にバトンを渡したいと思います。
最初に書いていた紹介文は彼から正式に却下されたので真面目に紹介したいと思います。
皆さんが持っている彼のイメージは「チャラい」だと思います。自分もそうでした。しかし、話してみるとただのいいやつで仲間思いです。しかも、オンオフを切り替えるのが上手く、ラクロスをしているときは誰よりもまじめにプレイし熱い男です。ギャップ萌えする方が多いかもしれませんが、チャラくて熱い日向の日記リレーに注目です。
日向よろしく!

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